本帖最后由 静若聆音 于 2018-6-13 21:58 编辑
感谢广西师范大学外国语学院组织的翻译工作
[日文 伏波山にある清代定粤寺の大釣鐘 伏波山に現存する大釣鐘は元々四望山の麓、畳彩山の前の定粤寺に置かれ、その後伏波山に移されたのです。定粤寺もこの大釣鐘も同じく、清朝のために両広を平定した定南王の孔有徳の功績を宣伝するために作られたものです。定粤寺は順治八年(1651年)孔有徳が建てたもので、鐘は孔の娘である孔四貞が父を記念するために康熙八年(1669年)に作ったもので、鐘の高さは約2.5メートル、直径は1.7メートル、重さは3013キロです。大釣鐘の上には『多心経』が刻んであり、四面の銘文の題字は「皇図堅実」、「帝道暇昌」、「仏日増輝」、「法輪常転」などの文字で、王朝の統治を称えるとともに定藩と仏教との関係を説明しております。これは三百年前広西の分裂と統一に巡る争いの歴史的証拠でもあります。
【桂林の昔話】
「還珠姫」孔四貞は清代唯一の漢人姫 孔四貞は清代定南王孔有徳の娘で、清代孝荘皇太后の義理の娘でもあり、唯一の漢族和碩姫であれば、ドラマ「還珠姫」の原型でもあります。父親の孔有徳は明代参将でしたが、崇禎五年清に降参した後、恭順王、定南王の称号が授けられました。清代順治九年(1652年)、南明の将軍李定国は桂林を攻め、孔有徳は靖江王府で焼身自殺しました。十七歳の孔四貞は一人で京まで逃亡しましたが、孝荘皇太后は彼女のことをかわいそうに思い、義理の娘として彼女を収容しました。それだけでなく、彼女に和碩姫の名分を賜り、郡主ほどの俸禄を与え、広西の軍隊管理権を授けました(『清史稿』伝記二十一に「定国が昼も夜も休まず攻撃するに対し、有徳は自ら城を守り、額に矢が当たっても兵士を指揮し続けた。敵が城の北山を奪い、麓まで攻めた時、有徳は家族とともに焼身自殺した…有徳の娘の孔四貞が家族を失い、上京した。」と記載されており、伝記二百六十一に「孝荘皇太后が彼女を宮で育て、金銀を万両以上賜り、俸禄も郡主に等しい。」と記載されており、『清実録・大清世祖章皇帝実録』巻九十一に「(順治十二年)皇帝は定南武壮王の孔有徳が功績を立って命を捧げることでその娘に俸禄と和碩姫の名分を賜り、護衛と召使も昔とおなじようにさせた。」と記載されており、『明季稗史初編・定南王孔伝』に「皇帝は孔の継承者がないことを見て、その軍隊には主が必要だと考え、四貞を和碩姫と授け、定南王の仕事を管理させ、遥かに広西軍を制御する。」と記載されている)。元々は彼女を東宮の妃にさせるつもりでしたが、父の孔有徳が生前彼女を孫延齢の嫁にさせたことがあると知った上でやめました(清代葉夢珠が書いた『続編绥寇紀略』に「世祖が彼女のことをかわいそうに思い、妃と授けようとするが、孫延齢との婚約が先だと知って諦めた。」と記載されている)。 康熙五十二年(1713年)、孔四貞は北京で亡くなり、郊外の姫墓に埋葬されました。
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