感谢广西师范大学外国语学院组织的翻译工作
【日文】
唐代の鄭叔斉の《独秀山の新開石室記》
原型の石刻は独秀峰の読書岩にあり、高さ0.48メートル、幅0.87メートルです。唐代の監察御史里行(唐代の官名で監察御史の補助官)の鄭叔斉は、建中元年(780)、文を作り、石壁に刻みました。その内容は桂州刺史、桂管観察使の李昌巎が南朝の始安郡太守顔延之の読書していた洞窟を整備したり、宣尼廟(孔子を祀る廟)と府学を建てたりしたことです。
独秀峰の名が顔延之の詩句から得る
独秀峰は桂林市中心の靖江王城の中にあり、昔の始安郡と桂林郡の郡治は共にここに設置しました。(広西名勝誌巻一「旧始安郡と桂林郡廯、)独峰が聳え、険しくて高く、気勢が雄大なので、昔から「南天一柱」と呼ばれたのです。昔の始安郡と桂林郡の郡治は共にここに設置します。『広西名勝誌』巻一載「旧始安郡及桂林郡廯、俱在独秀山下」(旧始安郡及び桂林郡廯は全て独秀山の下にあります)。鄭叔斉はこの山が「不籍不倚,不骞不崩,临百雉而特立,扶重霄而直上」(借りも頼りもないのに、壊れも崩れない。他の山と違って鳳凰が鳥群の中に立ちるように聳えています)を称賛し、胡適は「凡听说桂林山水的,无人不知道桂林的独秀峰。图画上的桂林山水,也只有独秀峰最出名」(桂林の山水を聞いた人はみんな独秀峰を知ります。図の桂林の山水は独秀峰だけ最も有名です)と評価し、第三任の靖江王の朱佐敬は「盖八景之奇,无出其最,故名独秀」(八景の奇特に一番なので、独秀峰と名をつけます。)と評価し、明代の張鳴鳳は「踞城稍東、凝秀独出、颇与众山遠,故曰独秀」(城の東にあり、秀麗で特別で、多くの山と非常に遠いので、独秀と呼ばれます。)と称賛します。ある文献及び石刻の情報によって、独秀峰という名は南朝の劉宋時期の始安郡の顔延之は独秀峰を賛美する詩句「未若独秀者,峨峨郛邑间」(他の山は独秀峰に及ばなく、城市の中に高く聳えています)、この二つの詩句は《独秀山の新開石室記》の石刻に記載され、人々は独秀峰という名がこの詩句から出典すると思われます。「嘉名之得,盖肇于此」(独秀峰の名は顔延之の詩句から出典します)。明代の歴史地理著作『桂勝』によって、この詩は最も早く「名賢」(有名な賢人)が桂林の山水を称賛したの詩句です。(『桂林勝』巻一称「顔二句見唐鄭叔斉記中,惜未睹其全然。兹山発咏自顔始,他盖未之及,故特存之。見經名賢赏异,独秀最先矣」)(『桂勝』巻一は顔延之の二つの詩句は唐代の鄭叔斉の記の中で、その全貌を見ることがないと惜しいです。独秀峰を称賛する人は顔延之から開始し、他の山が称賛するに及ばないので、特別に存在します。有名な賢人は鑑賞した後、顔延之は最も早く独秀峰を賛美する人だと思われます)
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