感谢广西师范大学外国语学院组织的翻译工作
【日文】
宋代の米芾の自画像
原型の石刻は伏波山の還珠洞の石壁にあり、高さ1.20メートル、幅0.47メートルです。広南西路の転運判官の方信孺は宋代嘉定八年(1215年)に、米芾の自画像を模写して彫刻したものです。画像の上に宋高宗趙構の称賛文、右側に米芾の長子米友仁の跋文、下に方信孺の記があります。米芾は自ら違った姿と服飾の自画像を何枚描いたのですが、これは『海岳遺事』の「曾入紹興内府」(紹興内府に入ったこと)の「服古衣冠」(服飾と冠)による記載されたバージョンです。
臨桂県の尉米芾
米芾は字が元章で、黄庭堅、蘇轼、蔡襄と並べて有名の宋代の四大書法家の一人です。宋代熙宁七年(1074年)、二十四歳の米芾は臨桂の県尉を務めました。任期が満了した後、彼は桂林の山水を楽しんで帰省したくなく、桂林の西山資慶寺で一定の期間に住んでいました。その間に、米芾は後世に知られる『陽朔山図』を創作し、「官于桂,见阳朔山,始知有笔力不能道者···夜坐怀所历,因作于阳朔万云亭(万云亭在阳朔城东漓江边)」(桂林に官職に務め、陽朔の山を見、筆があるのに力がないと知り···夜に坐て経験したことを思い、陽朔の万雲亭に作りました。万雲亭は陽朔の東の漓江の畔にあります)という題記があります。宋代嘉定年间、广南西路の転運判官の方信孺は米芾のことに興味があるので、特に彼の努めた県尉の浛光県(現在の広東英德県)に行き、彼のことを訪問しました。桂林に残された米芾の石刻を通し、桂林の親友の紹言和尚が当時にいった資慶寺でもらった『僧绍言の銘文』と、米芾が桂林にそれぞれのことを了解しました。宋代嘉定八年(1215年)、方信孺は桂林に静江府支使を務めた米芾の曾孙米秀实から米芾の自画像と真跡を借り、伏波山の還珠洞の石壁に刻みました。
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