感谢广西师范大学外国语学院组织的翻译工作
【日文】 清代安南国の黄仲政が湘山寺で書いた詩
原型である石刻は桂林全州湘山寺内の妙明塔のそばにある飛来石に彫刻してあり、高さは1メートルで、幅は0.65メートルです。これは乾隆四十八年(1783年)の年末、安南国(現在のベトナム)の朝賀使である黄仲政と黎有容、阮堂などが上京して貢ぎ物を捧げる途中、全州を通る時に黄仲政が書いた詩句です。乾隆四十九年(1784年)の始め頃、南巡していた乾隆皇帝が安南国の黄仲政共に長沙市から江寧(現在の南京)へ入朝させることを命じました。黄仲政共が呈上する文書と貢ぎ物を持って入朝したところ、皇帝から豊かなお返しを手に入れ、他に安南国王への「特賜」御製詩文一章と御製『古稀説』及び乾隆皇帝の肉筆の「南交屏翰」の四字横額をいただきました(『清史稿』伝記三百十四篇に「四十九年、帝が南巡し、安南の臣下黄仲政と黎有容、阮堂などが南城外で帝を迎え、相当な幣帛を受け取り、それ以外に「南交屏翰」の横額をも特別受け取った」と記載されている)。
【桂林の昔話】 桂林の人がベトナム黎王朝を立てる
黎桓(941-1005年)は桂林陽朔の人で、ベトナム前黎王朝(980-1009年)の開国皇帝であり、在位25年でした。黎桓は五代十国時期の南漢大有十四年(941年)頃の東郞山辺り(現在の桂林陽朔県福利鎮)に生まれ、その祖先の墓も陽朔にあります。父の黎覓(また黎寞と呼ばれる)が大きな罪を犯した故で、彼は五代十国の間(960年前)に父母に連れられて安南の愛州(現在のベトナムの清化)に逃亡し、愛州の観察使である黎氏に頼ることになりました。まもなく黎覓と母親の邓氏が相次いでなくなり、黎桓が観察使の黎氏によって育てられるようになりました。その後、丁氏を助けて王朝を立てる偉功により、権力者に信頼され、宋代開宝四年(971年)に交趾の丁王朝の軍の最高統帥――十道将軍殿前都指揮使に任命されました。その後、皇帝丁部領の息子である丁鏈を支持する名分で「天子を脅して諸侯を命じる」と同時に、その弟の丁璿と皇太后の楊氏を監禁しました。宋代太平興国四年(979年)、黎桓が自ら副王と名仱辍⒁钅甓∈险䴓丐驃Zい、年号を「天福」に変え、黎王朝を立てました。宋代淳化四年(993年)、黎は宋太宗に「交趾の郡王」という称号をくだされ、黎王朝は認められるようになりました。宋代景徳二年(1005年)、黎桓が六十四歳で亡くなり、廟号は太祖で諡号は大行皇帝です。黎桓に指定された継承者は皇太子の南封王黎龍鉞であるが、次子の黎龍錫と五子の黎龍鋌がともに皇位を狙い、互いに争いましたが、当時の殿前指揮使である李公蕴が混乱に仱袱皮郡廊坤本Aいた前黎王朝の皇位を奪いました(『広西通志』巻四十四に「宋代の黎桓の祖墓は(陽朔)県東南方白面寨の江東一里にあり、桓は五代の頃交趾に入り、宋代初年には郡王と授けられた」と記載されており、『陽朔県志』巻二に「宋代初年には黎桓氏がおり、(丁氏の)皇位を奪い、璿の名義で上奏し、皇帝になった。太祖(宋太宗)が彼に王の称号を授け、安南は黎氏によって統治し始めるようになった。三代を継ぎ二十九年で李公蕴に奪われた。」と記載されている)。その後黎桓の後裔である黎季牦と黎利は1400年、1428年に別々胡の王朝と後黎の王朝を立てたこともあります。
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